2023年9月29日(金) 18:00-20:00 (開場17:30)
福岡市美術館 ミュージアムホール
開催日程
第1部 18:00-
[ 音楽演劇 ]
<ヴァニタス・シリーズ Vol.2:フォーリングス>
作曲・演出: ゼミソン・ダリル
演奏: 石川 高(笙・竽)、松隈 聡子(ヴィオラ)、宇野 健太(チェロ)
映像制作: 雪阿弥
演奏時間 53分
「フォーリング」について:
自然は循環する。ビッグ•バンとビッグ•クランチ(大収縮)という議論中の宇宙の創生説、そして終焉理論から核融合・核分裂反応まで、循環は大小様々な規模で起きている。万物は生まれ、また消滅して、物質的か精神的かを問わず、また無機有機の別を問わず、あらゆるものは生死輪廻の影響下に在る。大乗仏教(永遠の霊性、魂魄、神、聖典、来世を仮定古代宗教の一つ)の哲学者は数千年も前から、このことを知っていた。
それだけではない。彼らは自ら哲学的概念・宗教的実践としての仏教自体もいつか滅することを明確に認めるというところまで行き着いてしまい、正しい法がこの世界から消え去る、その正確な日付さえ特定していた。
それによると正法不在の一万年、いわゆる「末法の世」は釈迦入滅後、一説では1500年後、また2,000年後に始まると考えられていた(鎌倉時代を生きた日本人は、釈迦の入滅を紀元前609年であったと信じていたようだ)。「方丈記」に活写されるが如き、思いもかけない程数多くの天災(震災)を数十年のうちに経験していた日本人にとって、末法の世に突入したことは疑うべからざることであった。末の世という概念は広く行き渡り、未来に対する夢なく、救いの望みは潰えてしまっていた。同様に、丁度同じ頃のヨーロッパでは、世紀の終わりごとにハルマゲドン(世界の終末に起こるとされる善と悪の決戦)が近いという混乱が生じ、人々を動揺させていた。けれども、あらゆるものがそうであるように、末法なる概念もまた、やって来ては去っていく。
・・・続き
今、我々は異なる種類の衰退期を生きている。世界中の気象パターンを変化させる人為的気候変動という大問題に加え、食糧不足と人
口過剰、増加の一途をたどるテロと大量殺人、世界各国に広がる移民排斥主義と孤立主義、経済の低成長あるいはマイナス成長に打つ
手を失ったかに見える後期資本主義制度。これらの問題は相互に繋がっているので、逐次処理して片付けることはできない。この事実
枯らして将来を悲観する理由として既に十分であろう。世界の首脳陣が依怙地なほど問題に無知であることを考慮しなくても、である。
20世紀末に先進国が享受していた生活が最高点であり、今や我々は落下中なのだという考えが今や世に蔓延している。
とは言え、偉大な(面白い、というべきか)芸術はしばしば困難な時代に現れるものである。時代自身が、芸術とは何か、また偉大さが
何であるか、人々に再考を促すからである。例えばザ•ダーク•マウンテン•プロジェクトなる団体がある。彼らは現在の産業文明が衰微
した後に訴える芸術を目指す、イギリスを本拠とする作家、アーティストの集まりである。彼らの反〔非〕文明マニフェスト曰く、「文
明の時代は去った。我々は近代文明に加担していたが故にその欠陥をよく理解し、瞬きせず毅然と問題を見、歯を食いしばりつつ、「反
〔非〕文明」という名のプロジェクトに直ちに着手しなければならない。これは著作物―芸術物―による挑戦だ」。
仮に文明が崩壊したとしても、芸術は、文は、音楽は、亡びない。我々はそんな状況でもそれに続く未来に希望を持ち続けるだろうし、
語るべき物語は、歌うべき歌はそこにまだあるだろう。墜ちゆく文明の中にあってなお、墜ちゆく文明そのものに想いを馳せ、書き、
歌うことができるだろう……。
プロフィール:
ゼミソン・ダリル Daryl Jamieson (作曲・演出)
ヨーク大学(英)で博士号取得(作曲)。その後来日、東京藝大の作曲家•近藤譲氏の薫陶を受ける。九州大学助教(現職)。第3回一柳慧コンテンポラリー賞受賞。作品は能や日本の伝統音楽、詩歌から強い影響を受けており、現在は音楽的時間と歌枕の心理––––地理学に深い関心を持っている。主要作品に「歌枕シリーズ」、演劇音楽「ヴァニタス•シリーズ」三部作、大規模室内楽曲「コノソ」がある。現代音楽美学に関する論文多数。ミュージック•シアター「工房•寂」芸術監督。
www.daryljamieson.com/jp
石川 高 (笙、竽)
1990年より笙の演奏活動をはじめ、国内、世界中の音楽祭に参加してきた。雅楽団体「伶楽舎(れいがくしゃ)」に所属し、笙の独奏者としても、即興演奏など様々な領域で活動を展開する。和光大学、学習院大学、沖縄県立芸術大学にて講義を行い、朝日カルチャーセンター新宿教室で「古代歌謡講座」を担当している。
https://aurora-argentea.bandcamp.com/
Daryl Jamieson作品では、Spectral (for Kazuo Ohno) / スぺクトル 大野一雄氏に寄せて (2012)、fallen fragments / 落ちてきた断片 (2015)、fallings / フォーリングス (2016)、Stravaig / ストラヴェイグ (2017)、Descants 1を演奏している。
松隈 聡子(ヴィオラ)
ロッテルダム音楽院卒業。サヴォンリンナ音楽アカデミー、オランダ国立ユースオーケストラ、ヴィオラスペース東京、新・福岡古楽音楽祭、つくば古楽合宿等に参加。 日本演奏連盟主催新人演奏会にて九州交響楽団と共演。寺神戸亮、若松夏美、成田寛各氏のマスタークラス受講。上尾直毅氏の通奏低音講座を受講。福岡を拠点に室内楽、オーケストラでの演奏活動、演奏会の企画、教育等、幅広く活動している。響ホール室内合奏団首席ヴィオラ奏者。コンセール・エクラタン福岡、アンサンブル・ファルケ、ぼんぐうに所属。
宇野 健太 (チェロ)
大分県日田市生まれ。東京藝術大学附属音楽高等学校を経て、ウィーン私立音楽芸術大学卒業ならびに同大学院修了。またグラーツ国立音楽大学現代音楽演奏学科にてクラングフォールム・ウィーンのもとで学ぶ。
これまでに金木博幸、山崎伸子、河野文昭、W.シュルツ、C.オッテンザマー、B.ヴァインマイスター、F.バルトロメイの各氏に師事。
2017年、クライペダ国際チェロコンクール第2位、同年パドヴァ国際音楽コンクール弦楽器部門第1位、総合部門第2位を獲得。
雪阿弥 (映像)
1983年生。作曲家ゼミソン・ダリルとともに現代音楽の制作・上演を目的とする工房•寂を設立、幼少より親しんだ能に主な霊感を得ながら舞台演出、衣装/プログラムのデザインや製作などを手がけてきた。これまでに、東京国立博物館内に移築された九条家の遺構を舞台とする「書院の室礼」の再現、九段・イタリア文化会館で開催されたモノオペラ 「ヴァニタス」(シャリーノ作曲)や「松虫」(ゼミソン作曲)の舞台デザイン、植物染めによる衣装制作を担当。昨年は能「融」を下敷きにしたゼミソンの新作「歌枕7:鹽竈」で舞台装置のデザインや衣装制作も行った。
第2部 19:00-
[ 講演 ] (ドイツ語、逐次通訳付き)
ヴィクトリア・フォン・フレミング
「〈人新世〉に向き合うヴァニタス」
ヴィクトリア・フォン・フレミング
Victoria von Flemming
ドイツ・ブラウンシュヴァイク美術大学 (Hochschule für Bildende Künste Braunschweig)教授。
中近世美術史、モダン・ポストモダン研究。
編著に「バロック・モダン・ポストモダン——未解明の関係」(2014)、「反復としてのヴァニタス」(2022)など
ドイツの研究成果をまとめた書籍として、以下の三冊がこれまで出版されています。
Claudia Benthien/ Victoria von Flemming (Hg.), Vanitas, Reflexionen über Vergänglichkeit in Literatur, bildender Kunst und theoretischen Diskursen der Gegenwart (Paragrana Internationale Zeitschrift für Historische Anthropologie, Band 27, 2018, Heft 2), Berlin: De Gruyter
https://www.slm.uni-hamburg.de/germanistik/personen/benthien/downloads/benthien-flemming-vanitas-2018.pdf
Claudia Benthien/ Antje Schmidt/ Christian Wobbeler (Hg.), Vanitas und Gesellschaft, Berlin: De Gruyter 2021
https://www.degruyter.com/document/doi/10.1515/9783110716016/html?lang=de#contents
Victoria von Flemming/ Julia Catherine Berger (Hg.), Vanitas als Wiederholung, Berlin: De Gruyter 2022
https://www.degruyter.com/document/doi/10.1515/9783110761047/html?lang=de#contents
司会:結城 円
福岡市美術館『コレクションハイライト』展とヴァニタス
現在、福岡市美術館で開催中の「コレクションハイライト」展の中にも、さまざまに「生のはかなさ」や「ヴァニタス」と関連付けられる作品が展示されています。それらの一部を、ヴァニタス研究会の視点からご紹介します。講演会・音楽演劇とともに、ぜひ展示も「ヴァニタス」を起点に楽しんでみてください。
*福岡市美術館HPの所蔵品検索からも作品をご覧いただけます。リンクをクリックしてご参照ください。
「コレクションハイライト①」より
草間彌生《夏(1)》 (1985) >福岡市美術館所蔵品のページへのリンク
草間彌生《夏(2)》 (1985) >福岡市美術館所蔵品のページへのリンク
夏枯れた花を思わせるこの作品をよく見ると、ヴァギナとファロスがひとつになっているかのよう。ヴァニタスを超えた生命の奔出。(石田圭子)
「コレクションハイライト②-3」より
マーク・ロスコ 《無題》(1961) >福岡市美術館所蔵品のページへのリンク
本作は明るい色彩の矩形が並び、鑑賞者を包み込むような親密さを感じさせる。しかし、画家は色彩ではなく、悲劇、運命などの人間の感情を表現することのみに関心があると言う。後期の作品は明るい色調から暗い色調へと向かい、制作において「死に対する思い入れが深く、死は避けられないことを暗示する」という画家の発言は、「メメント・モリ」の警句を想起させる。絶対的な「宗教体験」(ロスコ)が実現したのは、死後に完成した無宗派のロスコ・チャペル(1971)である。黒の色調を基本とした抽象画が八角形のチャペルの壁を覆い、画家が望んだ‘時間を超越した’空間へと誘う。(仲間裕子)
手塚愛子 《縦糸を引き抜く-五色》(2004) >福岡市美術館所蔵品のページへのリンク
昔の支配者は珍貴な織物で身を飾っていた。支配者が権力を失うことを恐れていればいるほど、貴重な織物を身にまとっていたようだと手塚は言う。こうして布はヴァニタスの象徴となる。手塚は美しい織物を糸に解いて作品にすることで、権力の象徴を脱構築していると考えられる。
手塚は「経糸の抽出-5色」という作品で、バラ模様の布を解いている。この布は赤、青、黄の原色と黒、白、そして緑のみで織られている。作品のタイトルも糸も、青、赤、黄、黒、白の仏教の五色を想起させる。死に臨む者は五色の糸を通して阿弥陀仏と結ばれ、浄土へと導かれるという。とすれば、この作品を無常の象徴として理解することはできないだろうか。(マーレン・ゴツィック)
「コレクションハイライト②-4」より
アンゼルム・キーファー 《メランコリア》(1989) >福岡市美術館所蔵品のページへのリンク
朽ちて残骸となった戦闘機、その翼に載ったガラスの多面体。「メランコリー(鬱)」と題された本作は、戦争の歴史と、知や芸術の伝統とが暗示されている。ガラスの多面体は、ドイツ・ルネサンスの芸術家デューラーの版画《メレンコリアⅠ》に描かれた謎めいたモチーフである。いかに繁栄を誇っても、歴史には必ず凋落のときが来る。17世紀バロック芸術の「ヴァニタス」の世界観につうじる、根源へのまなざしである。(香川檀)
鎌田友介 《Japanese Houses (Taiwan/Brazil/Korea/U.S./Japan)》(2021) >福岡市美術館所蔵品のページへのリンク
建築は記憶の器である。鎌田友介は、植民地支配の時代に韓国ならびに台湾に建てられた日本家屋、そして戦時中アメリカで焼夷弾実験のために設置された日本家屋、ブラジルで日本人移民が建てた日本家屋を長期にわたりリサーチしている。そのうち辛くも残存していたものは、時代の変遷のなかで何度もコンバートされ、代々の住人たちはすでにいない。崩壊の時を迎えた日本家屋は、時代のうつろいと幽霊のような時間の層を帯電している。
鎌田はこの作品において、リサーチした日本家屋の写真や設計図、木片を「床の間」のように構成している。床の間は日本家屋の象徴的中心であり、掛図や置物が飾られて日常や季節のうつりかわりを反映する小さなギャラリーでもある。相異なる歴史の断層を交錯させ、「床の間」として圧縮したこの作品は、近代帝国主義の盛衰とその家々に生きた人々の記憶のエンブレムとして機能するのである。(鈴木賢子)
大竹伸朗《WEB》(1990-91) >福岡市美術館所蔵品のページへのリンク
中央には現像に失敗した写真、その周りには無数の印刷物や紙片が配置されている。時間とともに写真は退色し、紙は摩耗していく。この作品は、複雑に絡み合う「時間」の層という大竹の関心を具体化している。と同時に、さまざまなモチーフの配置により、過去・現在・未来が折り重なり統合された時間の層を作り出し、「はかなさ」を表象するヴァニタス画の時間性との関連も思い起こさせる。(結城円)
インカ・ショニバレCBE 《桜を放つ女性》(2019) >福岡市美術館所蔵品のページへのリンク
散りゆく儚さの表象とされてきた桜は、ここでは生命力(エネルギー)となって放たれる。近代化、植民地、暴力性、そして抵抗……本作に散りばめられた象徴は、連想を誘いながら、従来の意味を少しずつずらしていく。こうした「反転」の可能性は、作品を見る者に、生と死の境界や、自分自身の矛盾ともいま一度向き合わせる力を持っている。(岡添瑠子)